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豊中市日中友好協会が創立15周年特別記念誌

15周年記念誌。表紙の写真は豊中市中央公民館の敷地の石碑「三義塚」

 豊中市日中友好協会(田中潤治会長)が2014年12月20日、創立15周年特別記念誌を発行した。
 豊中市日中友好協会は1998年4月29日に設立総会を開いた。記念誌は機関紙「豊中市日中友好だより」の21号で、A4判79ページ。
 2014年は創立15周年で、協会は2月23日、中国の文豪・魯迅(ろじん)と、豊中市に住んだ西村真琴をテーマにした講演会とパネル討論会を、豊中市のホテルで開いた。また、豊中市中央公民館では2月23日から25日まで、「西村真琴と魯迅展」を行った。記念誌はこの2つの催しを特集している。
 1932年1月28日、日中両軍が衝突した上海事変が起きた。事変の最中、大阪毎日新聞(現毎日新聞)学芸部に在籍していた西村と魯迅との間に、1羽のハトを介した友情が生まれた。
 西村は戦いで負傷した人たちを治療する医療団を率いて、上海に渡った。市郊外の三義里で飢えて飛べなくなったハトを見つけ、「三義」と名づけて、日本に連れ帰って育てた。
 三義に二世が生まれたら、西村は日中友好のあかしとして、上海に送るつもりだった。残念ながら、三義は豊中市の自宅で、イタチの襲われて死んでしまった。西村は「三義塚」と刻んだ碑を建て、その思いを手紙にしたため、「西東国こそ異(たが)へ小鳩等(こばとら)は親善(したしみ)あへり一つ巣箱に」の歌と、三義の絵を添えて魯迅に送った。
 魯迅は感激し、漢詩「三義塔に題す」を作って西村に贈った。詩は「度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐」と結んである。「荒波を渡っていけば兄弟がいる。会って笑えば、恩讐は消える」という意味だ。
 協会は西村の顕彰活動を続けていて、豊中市中央公民館の敷地に、石碑「三義塚」を設置した。西村と魯迅をテーマにした展覧会や討論会は、上海の魯迅記念館や日本で計画されたが、日中間の政治上のあつれきで開催直前に流れ、2014年に3度目の計画で実現した。記念誌はその模様を詳しく掲載している。
 そのほか記念誌は、協会15年の歩みを、写真を交えてまとめている。豊中市日中友好協会の連絡先は06-6857-3395。(梶川伸)=2014.01.15

豊中市日中友好協会 魯迅 西村真琴

更新日時 2015/01/16


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