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こころにしみる一言(223)虎太郎が死んで、墓に参った人がうちにも寄った。そこで、着物を掘り出して、細かく切って形見分けにした。

五條代官所の長屋門は五條市民俗資料館となっている

◇一言◇
 虎太郎が死んで、墓に参った人がうちにも寄った。そこで、着物を掘り出して、細かく切って形見分けにした。

◇本文◇
 天誅組(てんちゅうぐみ)の変ゆかりの場所を、取材したことがある。変は1863年のことで、明治維新(1868年)の先駆けとも言われ、最初の反江戸幕府武装蜂起と位置付けられる。
 土佐(現在の高知)出身の吉村虎太郎ら3人が総裁を名乗るリーダーだった。吉村らは8月17日、幕府の出先である五條代官所(奈良県五條市)を襲撃し、代官を殺害し、新政府の樹立を宣言した。京都では三条実美(さんじょう・さねとみ)、桂小五郎(後の木戸孝允)、高杉晋作らの急進派のよって、倒幕の機運が高まっていたことが背景にあった。
 ところが18日、朝廷内部で政変が起こり、三条実美らの急進派が一掃された。こうして、天誅組は一夜にして逆賊に代わり、討伐軍に追われることになった。天誅組は26日、高取城(奈良県高取町)を攻めるが失敗。以後は敗走を続け、9月27日までに3総裁が戦死し、幕を閉じた。
 取材の中で、奈良県御所市重阪、西尾清一さん(2004年に98歳)を訪ねた。祖父清右衛門さんから、吉村を慕う人が大勢訪ねてきたと聞いていたからだ。
 高取城攻撃で銃弾を受けた吉村は、逃げる途中、清右衛門さんの家に身を寄せ、近くの医師から傷の治療を受けた。出発の際、銃弾で穴があいた襦袢(じゅばん=下着)と、天誅組メンバーの連名書、別れの歌を残していった。
 清一さんは保管している襦袢を箱から取り出した。血の跡が茶色に残り、背中に「盡忠報国」の墨書がある。そして語った。「襦袢はうちに置いたが、着物は山に埋めたと、子どものころに聞いた。追手に見つかるのを恐れた。家の人も一時は山に身を隠した。虎太郎が死んで、墓に参った人がうちにも寄った。そこで、着物を掘り出して、細かく切って形見分けにしたらいい」
 時代の激流が生んだ悲劇は、細々ではあるが、今に伝えられている。(梶川伸)2020.02.19

更新日時 2020/02/19


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