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心にしみる一言(251) ササでふいた屋根は、青虫のすみ家だった。

終戦の日の新聞

◇一言◇
 ササでふいた屋根は、青虫のすみ家だった。

◇本文◇
 戦後50年の1995年、10回連載記事「ふるさとを求めて」を取材、執筆した。
 1934年、中国東北部(旧満州)に開拓団「生琉里(ふるさと)」が入植した。43戸205人の中に、風間博さんがいた。
 開拓への熱い思いを、戦争が打ち砕いた。国策として入植した土地はすでに整備されていて、くわの代わりに鉄砲を持った。終戦後は衛生状況の悪さから、開拓村の大勢が亡くなった。中国から引き揚げたのは1946年10月。
 風間さんは「拓友」と呼び合う仲間と、政府の緊急開拓事業に乗り、再び開拓に夢をかけた。長い取材時間で、戦争に翻弄された生涯を聞いたが、戦後の上野市(現伊賀市)での開拓の苦労話を上記に取り上げた。
 農地が用意されていた中国と違い、今度は松や雑木、ササを掘り起こす開墾だった。現金収入を得るため亜炭の炭鉱で働き、残りの時間を開墾にあてた。しかし、「元気のいい人でも、1日に10坪(33平方メートル)」が限度だった。
 1カ月ほどで粗末な家ができた。なるたけ真っ直ぐな松を切って柱にし、はりは藤づるで結んだ。しかし、上記の言葉のようなありさま。さらに「青虫はぶら下がるし、落ちてくる。フンがすごい。飯を食べる時に風呂敷をかぶった」。食事とはいっても雑炊ばかり。タンポポまで食べたいう。
 苦労の末、稲作を始めて生活は安定した。そして77年、「生琉里」が地名として認められ、名実ともに「ふるさと」となった。開拓の始まりが中国東北部への入植だとすると、43年後のことだった。終戦からは32年。
(梶川伸)2020.08.15

更新日時 2020/08/15


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