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豊中運動場100年(89) 第4回日本オリンピック 世界目指し好記録続出

世界を目指して初日から熱戦が繰り広げられた

 豊中運動場で開催される大阪毎日新聞社主催の「日本オリンピック大会」は、大日本体育協会主催の全国陸上選手権大会と並んで、大正時代の全国レベルの陸上競技大会として定着した。
1918(大正7)年11月9日、10日に開かれた「第4回日本オリンピック大会」は、翌19年5月にマニラで開催される第4回極東選手権競技大会(極東大会)の代表選考大会も兼ねた。大日本体育協会は東部支部主催の予選会を同月に東京で開催したが、西部支部は日本オリンピックを同支部の予選会とした。選手が参加しやすいようにと、東京と大阪で予選会を設けた。
日本オリンピックは、1915年の第2回極東大会(上海)、17年の第3回極東大会(東京)にも日本代表選手を送り出しており、国際大会の代表選考大会としてもすっかり有名になっていた。
大会の創設時は、アトラクションが多数組み込まれて娯楽的な雰囲気が強かった。しかし、このころにはトップアスリートが競い合う大会と位置付けられていた。第4回大会では「優勝よりも記録の更新を目指そう」と、日本新記録、極東新記録、世界新記録をマークした選手に対し、それぞれ日本賞、極東賞、世界賞を贈ることになった。「豊中から世界へ羽ばたけ」がスローガンになる。
選手やスタッフの気がかりは、秋口から猛威を振るい始めたスペイン風邪だった。医療技術が未熟なうえに、衛生状態も栄養事情も貧しく、瞬く間に流行し、全国で死者が続出した。1500メートルに出場し日本新記録で優勝した多久儀四郎選手は「今度は練習といってせず、ただ例の流行風邪を引かないように、そればかり注意して今日まで夜の外出など一切しないで、随分気を使いました」と話した。
スペイン風邪が暗い影を落としていたとはいえ、日本オリンピックの人気は高かった。阪神急行電鉄(この年の2月に箕面有馬電気軌道から社名変更)は全車両を動員し、梅田―豊中間で当時としては珍しい3両編成の電車を8分間隔で特別運転した。梅田停車場の北側に設けられた豊中行き臨時乗り場は乗客で埋まったという。
初日の9日。朝から空模様は思わしくない。
午前9時半、小雨が降る中で予選が始まった。時間とともにグラウンド状態は悪くなっていったが、好記録が次々と出た。
110メートル障害で、奥山一三選手(神戸高商)が自己の日本新を更新する17秒0で優勝。1500メートルでは、多久選手が日本新を12秒以上も縮める4分32秒2を記録した。多久選手は「800メートルにも5000メートルにも出ず、1500メートルだけに全力を集中した。走り方もいろいろと考えて改良した。おかげで志望を達してこんな愉快なことはない」と語った。
好記録が続出する一方で雨はますます強くなった。午後1時半には中止が決まる。予定していた競技は順延となった。(松本泉)

【第4回日本オリンピック競技種目】
100メートル▽200メートル▽400メートル▽800メートル▽1500メートル▽5000メートル▽マラソン(12マイル)▽110メートル障害▽200メートル障害▽800メートルリレー▽1600メートルリレー▽メドレーリレー(200、400、800、200メートル)▽走り幅跳び▽走り高跳び▽棒高跳び▽砲丸投げ▽やり投げ▽円盤投げ▽ハンマー投げ▽五種競技(220ヤード、走り幅跳び、砲丸投げ、円盤投げ、1マイル)▽十種競技(100ヤード、440ヤード、110メートル障害、走り幅跳び、砲丸投げ、円盤投げ、走り高跳び、三段跳び、棒高跳び、1マイル)
=2017.06.13

日本オリンピック大会 極東選手権競技大会 多久儀四郎 スペイン風邪 阪神急行電鉄 箕面有馬電気軌道 奥山一三

更新日時 2017/06/13


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