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豊中運動場100年(108=最終回) スポーツ、大衆文化に根付かせ/地域価値向上にも役割

豊中運動場の入り口からグラウンドを望む

 1920(大正9)年3月9日。こんな見出しが新聞を飾った。
「豊中運動場が宝塚に移る 阪神急行の新計画 一万坪」
 阪急電鉄の小林一三専務は、運動場や遊楽地をすべて宝塚に集中させるとしたうえで「経営上の利害からばかりではなく、その方へ行く人のために特別輸送をして一般の普通乗客に不便を感ぜしめないようと考えたのが第一の眼目である」と説明した。
 完成当時の豊中運動場は東洋一の総合グラウンドだった。しかし、もともと観客が詰め掛けることを想定しておらず、数千人を収容するのが精いっぱいで、すぐに手狭になった。
 また阪急電車の輸送力も限界だった。豊中運動場でイベントがあるときには一般の乗客が利用できないほど超満員になった。最寄りの豊中駅が梅田と宝塚の中間にあることから、柔軟な輸送計画が立てにくいことが災いした。
1922年6月。2万5千人収容の宝塚運動場がオープンした。
総面積は3万3千平方メートルで豊中運動場の1・5倍。鉄筋コンクリート製の観客スタンドを備えた総合グラウンドだった。
 一方で豊中運動場は、宝塚運動場のオープンとともに閉鎖された。
 記念行事はなく、9年間にわたり日本の近代スポーツをリードしたグラウンドであることを考えれば、寂しい最後だった。跡地はそのまま住宅地として整備されてしまう。
 阪急文化財団学芸員の正木喜勝さんは、豊中運動場の意義について「大正時代を代表する国内屈指のスポーツ文化の拠点でした。豊中に行けば国際試合を含む最高レベルの競技を観戦できました。学校教育と連携して高校野球、サッカー、ラグビーの全国大会の礎を築く一方で、講習会を開催したりレクリエーションのために運動場を開放したりするなど、社会教育にも一役買っています」と話す。
 またその運営について正木さんは「事業の多くは新聞社と共同で行われました。鉄道会社のインフラに新聞社の企画力や広報力が合わさることで、散発に終わらずスポーツを大衆文化として根付かせることに成功したのでしょう」と指摘したうえで、「結果的に豊中運動場は、地域の価値向上にも大きな役割を果たしたのではないでしょうか。住宅地として開発されたばかりの豊中の名は試合のたびに宣伝され、便利で環境の良い都市近郊の魅力をアピールできました」とその役割の幅広さにも言及する。
 豊中運動場閉鎖の2年後、24年8月には甲子園大運動場(現阪神甲子園球場)が完成し、同年10月には明治神宮外苑競技場(後の国立競技場)がオープンしている。豊中運動場で芽を吹き、育ち始めた近代スポーツは、新しいグラウンドに舞台を移し、美しい花を咲かせ、やがて大きな果実を生み出していった。(松本泉)=おわり

◇豊中運動場閉場後に完成した主な施設
1922年 4月 京阪グラウンド
  22年 6月 宝塚運動場
  24年 8月 甲子園大運動場
  24年10月 明治神宮外苑競技場
  26年10月 明治神宮野球場
=2018.03.13




更新日時 2018/03/13


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