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豊中運動場100年(101) 実力高める関西実業団/社会人大会、2部制で切磋琢磨 

豊中運動場の歴史をまとめた銘板。高校野球発祥の地記念公園に設けられた=豊中市玉井町で

豊中運動場は設立当初から、中等学校野球や大学野球だけでなく社会人野球にも広く開放された。
開場したばかりの1913(大正2)年には、美津濃商店が主催する「大阪実業団野球大会」が開かれ、生まれて間もない社会人野球は豊中運動場でその基盤を築いた。翌年の秋季大会まで豊中で開催されたが、後に会場を鳴尾運動場に移した。
代わって豊中運動場で開かれたのが、梶本運動具店主催の「浪華実業団野球大会」だった。
浪華実業団大会は15年9月、堂島グラウンドで第1回大会を開いたとの記録が残る。しかしほとんど資料が残っていないため、どのような経緯で大会ができたのかなどは不明だ。当時の新聞記事を拾うしかない。
なぜ会場が豊中に移ったのかは判然としない。また、鳴尾で開催している美津濃商店の大会とどのようにすみ分けたのかも定かでない。17年4月に初めて豊中運動場で第4回大会が開催され、8チームが参加したとの記録があるだけだ。
豊中運動場周辺は住宅地開発が進み、銀行や保険会社の社宅が多数設けられた。また阪急沿線に社宅を建てる大阪の企業が増えてきた。社会人野球にとって豊中運動場は、身近で親しみのあるグラウンドだったに違いない。
8チームだった浪華実業団大会の参加チーム数は、回を重ねるごとに増えていった。第7回大会(18年)18チーム、第9回大会(19年)32チーム、第12回大会(21年)には38チームにまで増えている。
参加チーム数の増加は、実力のばらつきにもつながった。第6回大会(18年)から、第1部と第2部の2部制をとっている。実力に応じた好試合が繰り広げられただけではない。第1部への昇格を狙ったり、第2部での好成績を目指して、互いに切磋琢磨(せっさたくま)して全体の実力も底上げされていった。
 関西では2つの社会人大会が、ともにスポーツメーカー主催で開催されたことは特筆すべきだろう。当時、全国各地で社会人大会がいくつも開催されたが、いずれも短命に終わっている。継続的に開催し、実力を試す場となった2大会の意義は大きかった。
豊中運動場と鳴尾運動場を舞台に社会人野球はますます力をつけていった。関西の実業団野球は、人気・実力ともに関東を大きく引き離していくことになる。(松本泉)

【浪華実業団野球大会優勝チーム】
▽第4回(17年春)
 不明
▽第5回(17年秋)
 古河合名会社
▽第6回(18年春)
 1部・大阪電灯
 2部・古河商事2部
▽第7回(18年秋)
 1部・古河商事
 2部・平松商店
▽第8回(19年春)
 1部・古河商事
 2部・三栄商会
▽第9回(19年秋)
 1部・三栄商会
 2部・茂木合名会社
▽第10回(20年春)
 1部・杉村倉庫
 2部・中森商店
▽第11回(20年秋)
 1部・杉村倉庫
 2部・山口銀行
▽第12回(21年春)
 1部・杉村倉庫
 2部・初塚商店
▽第13回(21年秋)
 1部・杉村倉庫
 2部・今宮職工学校教員
=2018.01.20

更新日時 2018/01/20


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