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西国街道をゆく① 池田市石橋~伊丹市下河原

高札場跡

 西国街道は京都から九州に通じる古くからの幹線道路で、池田市を通過する。阪急石橋駅から南に300メートルほど行くと踏切があり、そこで能勢街道と西国街道は交差する。今回はここを起点とし、池田市内の西国街道のうち、西に向けて歩いた。
起点の踏切には、「西国街道」の文字が見える。そこからは住宅街に入り、道は蛇行(だこう)しながら続いているので、旧街道らしい雰囲気を作り出す。街道を少し外れた正光寺に寄ってみようとしたが、住宅街の入り組んだ場所にあるので分かりにくい。通りかかった人に聞くと、わざわざ近くまで送ってくれた。外観の写真を撮って、再び街道を進むと、左手に住吉神社が現れる。境内は鎮守の森を形成していて、本殿のほかに稲荷大明神がまつられ、赤い鳥居が連なっていた。
 少し行くと、北轟木(とどろき)公園。公園の前に、西国街道の説明板が立っていた。公園の中には、大きな「住吉おもしろマップ」。子どもが描いたものらしいが、消えかかっている。1987年11月1日の日付があった。順正寺に寄る。境内にはしだれ桜があり、花の時期には美しいだろう。寺の横には水路があり、風情が良い。
 出会った人と雑談をしていると、防空壕(ごう)が残っていると言う。防空壕は十二神社の境内の奥にあり、説明板も設置してあった。ここは大阪第二飛行場(現大阪空港)に近く、太平洋戦争の激化で空襲の恐れがあるため、旧の北今在家、北轟木(とどろき)町、西市場町の住民によって、1943年に造られたという。
 壕は地下に掘ってあり、長さ10メートル、幅3~4メートル、高さ2メートルのコンクリート製。危険なので、地上の入り口はコンクリートの格子で閉ざされていた。
神社を出ると、すぐに中国自動車道にぶつかる。西側に渡るには、2つの地下道を通るが、直前に見た戦争の遺物とダブる。地下の空間はどうも薄気味悪い。
 街道は中国自動車道で分断されるため、道筋が途切れる。若いお母さんに聞くと、西国街道自体を知らないという。年配の男性はよく知っていて、受楽寺にある桂春團治(はるだんじ)の碑を見るように勧められた。碑は山門の前にあった。初代、二代目の春團治の遺徳をしのぶもので、三代目とその後援会が建立した。
 寺の北側には、弁慶の泉がある。源義経が頼朝に追われて西国街道を逃げていく途中に、家来の弁慶が水を飲んだという言い伝えのある井戸。柵で囲まれているが、今も水をたたえている。マチゴト36号の漫画「とよいけ劇場」でも取り上げられた。弁慶の泉から間もなく、街道は伊丹市に入る。   (梶川伸)
=地域密着新聞「マチゴト豊中・池田」第37号(2012年3月22日)

十二神社 受楽寺 大阪第二飛行場

更新日時 2012/03/07


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