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もういちど男と女(23) すき焼き

切り絵=成田一徹

 女22歳で結婚した。夫は社長の1人息子で、会社では専務だった。家は会社の横にあった。1年半たち、これからが本当の夫婦という時期に、離婚した。
 夫が家に帰らない日ができた。「女の人ができたんじゃない?」と会社の人に言われた。「そんなことはない」と反論したが、事実だった。
 夫の相手は会社の事務員で、10歳年上だった。難しい計算を暗算でこなし、一目置かれていた。会社で夫と別れ話をしていると、彼女がお茶を運んできた。悔しかった。
 女は夫を憎んだ。宗教にも救いを求めたが、立ち直れなかった。憎しみは続いた。「昼間1年、夢でさらに1年」
 女は事務員への対抗意識からそろばんを習い、通信教育で会計を勉強した。それが役立ち、小さな会社に就職した。
 年を経て、会社で存在感が増したころ、社長が接近してきた。もう、互いに若い時期は過ぎていた。社長には妻子があったが、「一緒になってくれ」と言い出した。
 女は捨てられた心が、完全には癒えていなかった。だからこそ、癒しを求めて、女も接近した。ただ、体を寄せ合っても、燃えることはなかった。
 昔の事務員と妻の立場が、逆転していた。社長が大事にしてくれるほど、とがめられているような気がした。女は会社をやめたが、関係は引きずった。
 矛盾を抱えた愛だったせいだろう、5年近くたって、女は別の男にひかれていった。その男にも家族はあった。
 女が風邪をひき、家で寝込んでいた日が転機だった。社長がゴルフの帰りに見舞いに寄った。病状の話をしていると、男もやってきた。男がドアを開けると、玄関に白い男物の靴があった。それを見て、室内には上がらず、帰っていった。
 女は裸足で追いかけた。玄関から出る時、白い靴を踏みつけたような気がする。男は車で走り去った。女が家に戻ると、靴はなかった。それから、社長が訪ねてくることはなかった。
 男と結婚したいとは思わなかったが、共に過ごす時間は楽しく、幸せだった。素直に抱かれ、喜びがあった。
 5年ほどして、破局は突然やってきた。その日、女の家ですき焼きをすることになっていた。男は肉や野菜を買い込み、車で女のもとへ向かっている最中に事故を起こした。重傷で、すぐに入院した。それから、会うことはなくなった。
 車に散乱した肉や野菜を見て、妻はどう思ったのだろう、と女は考えた。怒鳴り込んでこなかったのは、妻がすべてを知っていたのではないか。
 2年たち、女は男に電話をした。男は淡々と語った。「時は1秒、1分の積み重ね。逆の方向に歩き始めている。後戻りはできない」(梶川伸)=2006年9月30日の毎日新聞に掲載されたものを再掲載2014.10.09

もういちど男と女

更新日時 2014/10/09


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