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もういちど男と女(33) ビンタ 

切り絵=成田一徹

 サン・テグジュペリの「星の王子さま」の文庫本を、男はかばんから取り出して見せた。時々、持ち歩くのだと言う。
 家には箱入りのハードカバーのものがある。40年もたって、紙は茶色に変色しているが、大事に置いたままにしている。
 男は青春の1コマを語り出した。京都での大学生活だった。
 男のクラスは入学式がすむと、すぐにみんなが打ち解けた。男女がグループで嵐山を歩き、コンパに出かけた。男は付き合いが良く、いつも人の輪の中心にいた。
 クラスの中に、目のきれいな女がいた。授業が休講になると、2人だけで遊びに行った。大学から近い鴨川や京都御苑といった所ばかりだった。学生時代をどう過ごすか、といった話をした。
 ある授業の後の休み時間だった。女が「これ、あげる」と言って、本を手渡した。星の王子さまだった。男は何度か読んだ。今でも1番好きな本だと思っている。
 レコードもプレゼントされた。「バリハイ」や「引き潮」など4曲が入っていた。これもよく聴いた。女が作ったバラの手芸品ももらった。
 やがて大学は、政治の時代に入った。日韓条約の反対運動が起き、男は東京のデモに参加した。クラスの旗を託され、「必ず持って帰ってこい」と級友に言われた。
 夜行列車で東京に行き、労働組合の建物に集結して、旗ざおを受け取った。クラスの旗を掲げ、国会を周回するデモ隊に参加した。しかし、途中で嫌気がさしてきた。
 ほかの大学の女子学生と話していると、「銀座に行ってみたい」と言う。男は旗を腹に巻き、上着で隠してテモから離れ、一緒に銀座に行った。
 男は学生運動にのめり込みはしなかった。しかし、大学は休講が続き、クラスのまとまりも弱くなった。星の王子さまの女とも疎遠になった。
 大学を卒業しても、しばらくは年賀状のやり取りがあった。女が結婚した時には祝電も打った。
 卒業して20年たって、同窓会が開かれた。男は受付係を引き受けた。
 女がやって来た。卒業以来の出会いだった。男は思わず立ち上がった。そのとたん、女のビンタが左のほおを打った。
 周りにいた同窓生が、「何があったんや」と驚いた。男はポカンとするだけだった。
 半年後、男は女を喫茶店に呼び出して聞いた。「何でどついたんや」
 女は言った。「分からんあんたがアホや」。それで終わりだった。
 女の好意に気づかなかったのか、と男は考えてみる。本当のところは分からない。ただ、青春にピリオドを打つビンタだった気がする。そのひと打ちで、かさぶたが取れたのだろうと。
 そこまで話して、男も言った。「これで、オレのかさぶたも取れた」(梶川伸)
=2006年12月16日に掲載されたものを再掲載2014.12.28

日韓条約

更新日時 2014/12/28


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