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もういちど男と女(17) 二輪草 

切り絵=成田一徹

 信州に住む男のもとに、東京から手紙が届いた。別れた妻からだった。「桜の季節になって、私にも春が来ました。再婚しました」
 男に動揺はなかった。「東京は花見の季節なのか」と思った程度だった。3月の末の信州は、花便りには間があった。
 男は人付き合いが苦手だった。山の中を歩いている方が、性に合っていた。妻と出会ったのも山小屋だった。
 離婚した後、男は都会の生活を捨てて、安曇野(あずみの)に居を構えた。50歳を前にしての1人暮らしだった。引き取った息子は、東京で就職していた。
 手紙をもらって間もなく、男は大阪の友だちの携帯電話にメールを送った。4月1日だった。「再婚しました」。妻のことではなく、自分のことだった。
 友だちはびっくりした。男の浮いた話など、聞いたことがなかったからだ。しかも、「再婚しました」と、過去形になっている。そこで、思い当たった。「エイプリルフールかも」
 男に確かめると、推測は当たっていた。しかし、そんないたずら心を持っていたのが、意外だった。「好きな人ができたのではないか」。その推測も当たっていた。それから、男はうきうきした気持ちを、電話で話すようになった。性格が変わったようだった。信州にも春はやってきた。
 女は九州から移り住んでいた。子どもや都会の人たちに、山の魅力を知らせるNPOで仕事をしていた。20歳も年が離れてはいたが、話が合った。男は「娘のように可愛い」と思った。
 2人きりで出かけるようになった。上高地に二輪草を見に行った。男は花と女を重ね合わせて、いとおしいと感じた。
 女の仕事は忙しく、帰宅も遅かった。「家に着いたらバタンキュー」。そんな話を聞いて、男は時々、女の家に出向いて、夕食を用意することにした。もらいもののマスで、なべ料理を作った夜、男は泊まった。
 翌朝、自宅に帰った男は友だちに電話を入れた。「鍵をもらった」。言葉は続いた。「背が低くて、やせていて、少年のようだけど、可愛くて仕方がない」
 息子にも電話をした。「彼女ができた」。息子は言った。「将来を看なくていいから、助かった」。その言葉で気が楽になった。
 男は泊まると、女が職場に持っていく弁当のおかずを作る。詰めるのは女がする。1度、男が詰めたことがある。女は親友にひやかされた。「彼に作ってもらったんでしょう」。彼女だけが、2人の仲を知っていた。
 男と女では、詰め方が違うらしい。職場の仲間には、まだ2人のことを伏せておこうと、女は決めている。男は早く、自分の弁当を見せてほしいと願っているのだが。(梶川伸)2006年8月5日の毎日新聞に掲載されたものを再掲載2-14.08.31

二輪草 安曇野

更新日時 2014/08/31


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